c71の一日

生活の記録

誰かを「精神疾患」「人格障害」「脳の問題」とののしること

ネット上で、他人に対して診断行為を行いながら、ののしる人がいる。


アスペ、精神疾患人格障害、メンヘラ、脳の問題、キチガイ、などと。


差別は人を殺す場合がある。わたしは自分の知り合いが、差別によって、追いつめられて行く様を見ながら、何もできないでいた。


だから、わたしは、差別をするその人へ抗議し、追いつめた。追いつめられた人は最初、抵抗し、その後逃げたがった。追いつめられていることがわたしにもわかった。わかったが、やめなかった。逃げられるならばそれは非難できるものではないが(差別者も健康で暮らす必要がある)、差別された側は、逃げることができない。わたしは、おととい、自分の知り合いが、精神の健康を崩していくことが恐ろしかった。しかし、最後まで抗議を突き詰めて、追いつめることは、別の問題を生むとも思った。謝罪を得るところまではだからしなかった。


わたしは、ブログのコメント欄でも、現実でも、いや、ネット上がほとんどだが「人格障害」「アスペ」「人格障害」「メンヘラ」「キチガイ」「脳がおかしい」「頭がおかしい」と言われたことがある。(現実でもあるのが悲しいところ…まあ付き合う人は選べるからね)



精神疾患に関しては、聞きかじりの知識で、相手を診断しても良いと思っている人が多いらしい。
そして、その言葉を発言したら、相手が黙るのだと思っている人がいるらしい。

「アスペだから人が離れていくんですよ」「メンヘラだと誰もがあなたを嫌っていきますよ」「みんなあなたから離れていきますよ」そういう言い方をする場合もある。
こころがすり切れていきそうになったが、わたしはだんだん不感症になった。

精神疾患があるから、自分を弱者だと思って、特権が欲しいんですね」
「点を甘くしてほしがっても、そんなの無理ですよ」
そういう言い方をする人もいる。
「だから、人が離れていくんですよ。最後にはひとりぼっちですよ」
そういう人もいる。
しかし、わたしには味方も多いのだった。
それは、ブログを通して、地道に書いてきて、地道に共感してくれる人を得たからだった。
それは、わたしのやり遂げたことのひとつで、人を励ますこともできたし、励まされることもできた。そういう経験があって、わたしはバランスがとれるようになった。
以前の鬱状態がひどい頃は、バランスのとれた考えができず、良い部分を評価できなかっただろう。死ぬことを考えて、自分をリセットすることで、立て直すという荒技を使って、精神力を摩耗していただろう。



わたしは論理的にものを考えることができる。それは、精神疾患があろうがなかろうが、精神障害者であろうがなかろうが、変わらないことだ。
わたしが過酷な人生を歩んでいようと、歩んでいまいと、わたしの来歴がどのように評価されるかは半々だと思うが、わたしが論理的なのは、疑いもないことだ。
わたしは自分が論理的であること、文章に力があることを、周りの友だちに気づかされて以来、その友だちを信じるのと同じくらい、信じるようになった。



精神疾患があったり、脳に欠陥があったとしても、それは人の機能の一部のことだ。
精神疾患にもいろいろな症状があるし、診断名がたとえついていても、日々によってコンディションは全然違う。また、わたしの場合は、用があるとき以外、診断名をつけてもらってはいなかった。
それは、なぜかというと、医師の信念からだ。

医師は、「診断名がついたからと言って、治るならば診断名はいくらでもつけるが、困っていることに対して、治療するのだから、診断名は必要ない、診断名をつけることで、その人がバランスを崩したり、診断名に寄りかかったりする方が、もっと問題だ」と語った。



医師はわたしの診断をつけるために、何年もかけた。そして、その後、入院してから、入院先でも、セカンドオピニオンが、診断をつけるためには、全部で五時間か六時間か、それ以上の検査を受け、そして、一日の生活のリズムや様子を観察した上で、診断名をつけた。


そして、薬を調整した。
薬を調整したのは、わたしがより楽に生活をできるようにするためだ。


それ以来、わたしは、生活を楽に暮らすことができるようになった。
診断は、病人を楽にくらせさせるためのハンドルに過ぎない。



それに引き換え、ネット上の、ののしるための診断と言ったらどうだろう。
書かれたものについて、少し読んだだけで、そして、聞きかじりの診断で、わたしの医師たちが、何百時間もかけて、知ってきたことを、ほんの数秒で判断する。そして、わたしを裁き、何かができないと決めつける。
決めつけ、ののしり、その理由を精神疾患のせいだと言う。
相手の気持ちを踏みにじるためだけに、精神疾患だという。
そうして、相手の反論を封じ込める。
やりこめるだけにそう言う。
じゃあ、精神疾患を患っていたら、わたしたちは、声を上げてはならないんだろうか。
そんなことはない。


他人が許可も得ずに診断をつける行為には、いくつもの問題がある。
ネット上の少ない情報で診断をつけること。これは推測だ。
そして、診断によって、人の生活を楽にすることに使うのではなく、「できないこと」に意識を向けさせ、自尊心を損なうこと。
また、病名を差別用語として使うこと。そして、差別されてもしかたない、烙印だとすること。


言われた相手が、本当に精神疾患である場合、「精神疾患とはこのように差別されても仕方がないものだ」と誤学習してしまう場合があり、自尊心を傷つけられる。これは、ときとして、自責や自傷に走らせる。



言われた相手が、精神疾患ではない場合、やはり、「精神疾患とはこのように差別や攻撃に使えるタームなのだ」と思ってしまう場合がある。


ののしるための、ネット上の診断行為は、本来の医療が、病人を楽にするためのものである、ということを踏みにじっている。
また、単なる疾患のひとつに過ぎないことを、人格にまで及ぶものだと誤解したまま、その誤解を使って、人を傷つける、差別する行為が悪い。


精神疾患で、一時的に能力が発揮できにくくなったとしても、また、その人に特質すべき能力がなかったとしても、その人の人格は尊重されるべきだ。また能力もそうなのである。


わたしの場合は、例にとると、論理的に考えることが得意である。それは、精神疾患になったあとも変わらない特質であり続けた。
しかし、一方、ののしりに診断行為を使う人たちは「精神疾患の者は論理的に考えられない」と誤った知識を持っている。わたしの書いたものを読まなくても、「論理的ではない」「読む価値がない」と決めつけることができる。彼らは正確な知識を持たないからだ。



しかし、言われた側は、そんなことを考える余裕がない。
書いた文章から、自分の病的さが漏れ出たのかもしれないと、疑心暗鬼になり、病状悪化を深めてしまう。


実際に、メンタルヘルスを悪化させてしまうことも、「精神疾患とののしること」の悪い点だろう。


だから、精神疾患人格障害、脳の問題だ、とののしることは、単にののしることよりも、害が多い。
人格全体を攻撃することになるからだ。その人が見ている現実を足下からゆるがせにしてしまうからだ。
障害や、精神疾患があるから、ダメ、というわけじゃない。
ダメなことはない。
患っていたら差別していいのか?してはいけない。患っていたら責めて良いのか?良くない。
病気の人は労らなくてはいけない。嘲笑してはいけない。
病気は、悲しいことでもあるし、苦しいことでもある。だけど、他人や自分で、「障害があるからダメ」「精神疾患があるからダメ」というわけじゃないことを言いたい。
ダメだったら生きていってはいけないんだろうか?
本当に?
わたしたちは、なんでもない、ただの人間だ。
誰かをそんな風に裁くことはできない。
能力が誰に取って役に立つのかなんて、場面によって違うのだから、有用な人間だけ残すこともできない限り、わたしたちは、どれだけダメでも生きていって良いのだ。
わたしは必ず肯定する。


精神の状況を、勝手に診断する人たちは、わたしの医師の誠実さを踏みにじり、医療の理念を踏みにじっている。
患者が、少しでも良くなろうと努力していることを踏みにじっている。
治療の目的や診断が、患者の生活をよりよくするためのものだ、ということも踏みにじっている。
メンタルヘルスを実際に悪化させる。それは、もともと健康な人であってもなくても、悪化するだろう。
一見医療行為に似たことをしているようで、実際には反医療行為だ。
だからこそ、わたしはそれを許さない。


下記の出来事が起きたので、考えたことです。
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元ネタはこちらのツイート


最近、差別と精神疾患、性、などについて考えていたので、まとめてみました。
自分では思いつかない切り口で書けたので満足しています。