c71の一日

生活の記録

黙っていたって大丈夫

言葉にできないことが起きてしまったとき、言葉にならないことって良くある。


わたしにも良くある。
その場では驚きすぎて言葉にできないし反応もできない。
まさか、え、そんなこと、なに?わたしが間違ってる?嘘でしょ、いや、これが正しいのかもしれない、だって、相手は平然としている、普通の顔してるんだもん、こっちの過剰な反応かな……

そんな風になることよくある。
そのあと考えてやっぱり、おかしかった、ってなることもある。
それで、ああ、でも、怒っても冷静に説明しても、わかってもらえないんだなあ……と思い、自分が「もらいたい」っていう、すごく物乞いするような思考に陥っていることにも愕然とする。


そのことが、起きたときに、なんとか言えたとしても、たどたどしくしか言えなくて、
「何言ってるの」「感情的すぎてわかんない」「論理的に言って」と言われたり、論理的に話したつもりでも「それが論理的なつもり?」「ヒステリー」「怒ってるの?」「気分悪くした?」「冗談通じないんだね」と、半分笑いながら、言われるのがオチだ。

「そんなの説明になってない、もっとわかりやすく言え」「そんなの説明になっていない、形式がなってない」というわけ。


たどたどしく伝えた必死の訴えも、裁かれてしまう。


そうすると、心が少しずつ死んでいって、言えなかった自分を責めてしまう。
だけど、違うんだよ、その「何か」を言った人が悪いわけ。
それに対して抗議が出来なかったとか、うまい抗議が出来なかったとかは、全然悪くない。
差別を見逃す人も差別に加担しているんだ、という人もいるけれど、差別って、権力構造だから、それに逆らうと何が起きるかわからない。
だから、言えないときがあったって良い。
言えるときがあれば万々歳だ。


だんだん練習すれば言えるようになる。だけど、いらない傷を負うようになる。どっちにしろ、傷は負うのだけど。言っても言わなくても。


言わなきゃわかんない、つっても、言ってもわからない、ってことの方が多い。


わたしは、自分の繊細さがいつどこで死んでしまったのかわからないけれど、今はとにかく迷子になっていて、今の自分がとても図太いんだなとわかっているよ。
だけど、図太い自分も好きだよ。
ばしばしものを言えるように練習できているから。
でも、こんなわたしだって、現実の世界ではすらすら言えなかったりして、三日かかって考えて、そして言っても、相手は言ったことすら覚えていないなんてこと、よくあるよ。


そして、わたしがこうしてブログを欠くことに意味があるのかって?
ないのかもしれないね。でも、あるんだよやっぱり。
わたしが現実で言えるようになるかもしれない。
それだけじゃない。
わたしは、黙っていたって大丈夫って、自分にもこうして説明が出来るし、読んでいる人も、もしかしたら、言えなかった自分でも大丈夫なんだ、okなんだ、って思えるかもしれないじゃない?
思えないかもしれないけどさ。それももちろんあるけど、可能性がゼロじゃない。ゼロじゃないなら、わたしは書くし、ゼロだってわたしは書く。


弱く負けていて、貶められている側だけが、戦いの重荷を背負わないといけないなんてことない。
背負えるときにだけ背負えば良い。
生存にだって、わたしたちは一生懸命なんだから。
生存して、ゆっくり考えれば良い。ゆっくり、そのときじゃなくても、言葉にできたら、運が良い。
黙っていたことを、責めないで。そのままで大丈夫。