c71の一日

生活の記録

罪悪感も知恵のうち

あまりに頭が悪いと、自分が何をしたのか、わからないらしい。
無邪気に、人に対していやなことをするけれど、自分で何をしたのかの、「意味」がわからないから、反省もない。むしろ、自分は良いことをした、普通、と思っているのだなあ、とあることがあって思った。


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このへんの記事を書いて思ったのは、「個人が不愉快だと思う」ことと、「規範に抑圧されているからそれをなくしたい」と思うことは、別のレイアーにある、ってことがわからない人多いのだろうなと思った。
わたしは、あの記事で、もちろん、個人の選択をああだこうだ言ってはいない。それは、読んだ人にみんなに伝わったみたいだから、本当に良かった。

ただ、わたしに対して「自分が個人的に気にしなければ生きやすいのに」というような意見がいくつか散見された。


そうじゃないのだ。そもそも、選択を強いられる、ってところがいやなのだ。しかも女性ばかり。
わたしが女性だからと言って、そのことを忌避するために努力するコスト、そういうのがもう、足下をすくわれているのでいやだ。



わたしだって、化粧もするし、ヒールも履くよ。遊びにいくときは。でも、そうじゃないときには、放っておいてほしい。そう思う。


差別どうのこうのではなくても、人の服装にああだこうだ言うのは品がない。シャツが出てるとか ボタンが止めてないとか教えるのは親切だと思うけど、それはみんなクリアしているわけで。


人の服装や容姿について、ああだこうだ言うのは、そもそもいけないことなのだ、ということが、わかっていない人が多いのだろうか。
個人の選択について、その人がいろいろな状況を加味した結果動いているのに、当事者より自分の方が詳しいとばかりに「もっとこうすれば良いのに」というのは失礼だし、「生きづらそうだ」というのは、非常に失礼だ。


わたしは差別に気がついているから、それを避けることができる、もしくは、避けられなくても、自分の心を切り離しておくことができる、という意味で生きやすい。差別に気づかないで、差別されていると、だんだん、生きるための元気がなくなって、自分が耐えれば良い、耐えてない人がにくい、という思考になりやすい。差別構造にいると、谷んに対しても攻撃的になる。同じように差別されていないように見える人が憎いからだ。


人の内心を忖度したり、裁いたり、人の容姿につべこべいうのは、そもそも品がないと思うんだけどなあ。うまくやれよ、と言うだけで、差別に加担しているけれど、それだけじゃなくて、容姿をどうのこうのいうのは、それもハラスメントだし、そうなくても品がない。
やめた方が良いと思う。自分が大人だと認識しているのなら。



自分が気に食わないことと、仕組みとして、そうやって回っていること、マナーや、常識と言う名で、人のからだの自由を侵害することについて、わたしはいやだと思うし、それは、個人的にいやだと思っているだけじゃなくて、もっと広がりのある話だよ。