c71の一日

生活の記録

ゴヒエツコ氏の「二次加害」という言葉を盾に、黙らされる人々

ゴヒエツコ氏の語る話は、ほとんど嘘だった。
本当のことのほうが少ない。ゴヒエツコ氏は、わたしに対して、中島氏に週刊金曜日を紹介してもらったといっていた。しかし、調べたところ、実際には、2012年7月以前から、週刊金曜日とリプライを送りあっている。また、選挙ステッカー、という取り組みで、ゴヒエツコが週刊金曜日と中島氏と連絡を取り合っている。


こんな些細なことまで、嘘だ。とても、ゴヒエツコ氏のいうことを信じられない。メールに出ていた人に連絡を取って聞いてみたら、相談されたことはない、メールはもらったことがある、と否定された。


ゴヒエツコ氏が以前かかわっていた仕事先の社長は、ゴヒエツコ氏とは、今全く関係がないと強く言っていた。





反原発連ができたのは、2011年。


事件があったとされるのは、2012年7月9日。菅野完氏が、意見広告を出したのが、7月12日。


菅野完氏は、7月18日から8月2日の間に、反原発連に加入している。

反原発連に菅野氏がもともといて、その後、ゴヒエツコ氏が襲われたなら、反原発連は対応するべきだ。


しかし、襲われた後に、菅野氏が反原発連に加入したのなら、ゴヒエツコ氏が、反原発連に、対応を求めるのは筋が違う。
反原発連には、対応する理由がない。運動と関係がないところで行われたことだから。
ゴヒエツコ氏の行動は、菅野氏の居場所を奪うために行われていると考えられる。




菅野氏は、自主的に8月21日に脱退している。

菅野氏が、反原発連にいられたのは、一か月程度だ。


その後、菅野氏は、離婚する。

ゴヒエツコ氏は、反原発連に、菅野保氏が反原発連を脱退した後も、対応を求めている。
それだけでなく、その後、菅野完氏が参加した、反レイシズム運動に対しても、被害を訴えている。
全く違う運動体だから、お門違いだ。
これは、ただ、菅野氏の居場所を奪うためにしたことだろう。
その目論見は成功した。



性暴力被害者の訴えを退けることは、誰もがためらう。
二次加害をすることを避けたいからだ。


二次加害をしないでくれ、というのは、ずっと、被害者たちが言い続けてきたことだ。
しかし、ゴヒエツコ氏は、二次加害を盾に、反原発連、菅野氏に沈黙を強いている。


推測をする。

この流れを見ると、ゴヒエツコ氏が、菅野氏をストーキングして、その結果、反原発連から追い出し、性暴力を訴えることで、彼らを離婚させたのだと考えられる。

わたしに、ストーキングしているのが、本当にゴヒエツコ氏かどうかはわからない。
しかし、嫌がらせコメント主は、ゴヒエツコを本名だと確信している。


週刊金曜日は、部数を上げるために、日本会議で注目されていた、菅野氏を攻撃する動機がある。


ストーカーによって、菅野完氏が、離婚せざるを得なくなり、言論の自由を奪われていったのは、非常にショックだ。
菅野氏は、ずっと対応し続けていた。
しかし、菅野氏が書いた謝罪文も、ゴヒエツコ氏は「法廷で使える法的な証拠が手に入った」と述べていた。
社会通念からしたら、謝罪文を受け取った時点で、和解が成立する。
そののち、ゴヒエツコ氏は、裁判を起こす。卑劣としか言いようがない。

ゴヒエツコ氏が行った菅野完 noiehoie 氏への暴力

これは、わたしの考えで書く。もう、誰かに頼まれて記事を書かない。
一方的に性被害を訴えるメールを送り付け、秘密を保持させ、裏工作に協力させるというのは、暴力だ。
そのメールの被害に遭った人は、ほかにもいる。


ゴヒエツコ氏は、自分自身で、菅野氏が行動する先々で、反原発連、反レイシズム運動、それぞれで彼が加害をしたと訴えたと公言していた。
そして、社会的につぶしたいと言っていた。実際に、わたしに裏工作を頼むなど行動もしていた。
自分自身がしてきたことや、謝罪を受け入れたことの事実を伏せて。



これは暴力だ。



ゴヒエツコの名前が、本名だと確信している人の嫌がらせコメントを受け、推測を進めてみた。

c71.hatenablog.com

ゴヒエツコの名前が本名だと確信している人が、ゴヒエツコ本人だと仮定すると、彼女の訴え自体が信憑性を欠いてくる。


菅野完 noiehoie 氏が、自分から事実を認めていること自体が、被害の表れなのではないか。
つまり、ゴヒエツコ氏が、菅野氏をストーキングしているのではないかと思うようになった。


菅野氏は、ストーカーから身を守るために、事実関係を認め、早く縁を切りたいと思うあまり、相手の言い分を飲んでいるのではないかと。


ゴヒエツコの訴える事件当日のツイートを検証しているサイトがある。

ericd.seesaa.net

事件当日の22:35の前にゴヒエツコ氏が

今の今までのいほいさんとお茶してたけど、あのオッサン携帯の電池切れてたから自演はないですわ(笑)

と、ツイートしている。
お茶をした後、ツイートをした。



菅野氏が帰宅したのが、23時半。
ツイートの後に、事件があったとしたら、一時間しか間がない。その間にタクシーで移動して、家に行って、作業をして、それから事件が起こり、そして、菅野氏が帰宅するまでたったの一時間だ。

ツイートの前に、事件があったが、和やかなツイートをする可能性もある。性暴力を受けたあと、友好的な態度に出て、恐怖を紛らわせることもあるからだ。



しかし、次の日の朝、

2012/07/10
09:59 @etsugohi 笑顔が似合う~ 楽しくなる~ ワケもなくドキ~♪ ムネムネ~♪ 眠い~♪
15:08 @etsugohi お金は埋まってるよー♪

という会話を、naeとゴヒエツコ氏は行っている。nae氏は、グループチャットで、わたしたちに「事件の時からずっとゴヒエツコ氏を見守ってきた」と発言している。



事件の次の日の朝に、「信頼できる友人」が「お金は埋まっているよー♪」という、ツイートを被害者に対してするだろうか?



naeは「最初からずっと見守ってくれている」ということなのに。
矛盾している。



防衛反応は、加害者に対して行われる。
対面しているときに、恐怖から、加害者に対して友好的な態度をとるのはよくわかる。

しかし、親しい友人に対して、恐怖を押し隠す必要はない。


可能性としては、あまりに恐ろしくて、自分に起きた被害を認識することができなかった、ということがある。


だが、週刊金曜日の記事によると、ゴヒエツコ氏がその場で恐怖を感じているという描写がある。だから、事件当日から、被害の認識はあったはずだ。自分に対して、自分の被害を受け止めること自体が難しいという状況ではなかったことになる。



ゴヒエツコ氏とx氏との対話を読むと、ゴヒエツコ氏は、事実を自分の都合のよいほうに少しずつ捻じ曲げて会話をする特徴がみられる。(その会話は、x氏がゴヒエツコ氏に加えられた被害の記録でもあるので表に出さない)


わたしの考えでは、ゴヒエツコ氏は、事実が全くないところから、嘘をつくタイプの人間だ。普通、人は嘘をついたり、事実と異なることを言ったりするとき、事実を歪曲する。だから、わたしたちは、何かもめ事があったとき「大げさに言っているかもしれないけれど、そのもととなった事実はあるのだろう」と考えがちだ。事実自体は疑わない。





嫌がらせコメントを読むと、「c71はセカンドレイプをしている」ということが延々と書いてある。しかし、今までわたしは、「自分自身に加えられた加害について」のみ書いてきた。だから、セカンドレイプはしていない。


嫌がらせコメントを書く人物が、ゴヒエツコ氏だと仮定すると、「事実がないところから、被害を作り上げる人物」ということがわかる。(ゴヒエツコという名前はハンドルなのに、なぜか、嫌がらせコメント主は、本名だと確信している)


推論を進めていくと、そもそも、ゴヒエツコ氏の訴える性被害自体が、なかったのではないか……。


わたしは、今では、菅野氏の名誉を棄損するためだけの裏工作に巻き込まれたのだと思っている。そうとでも考えなければ、ゴヒエツコ氏の発言のつじつまが合わない。一つ、二つ合わないだけならわかる。事件から四年もたっているのだから、記憶も変化しているだろうと思う。しかし、嘘の数が多すぎる。


わたしが、ゴヒエツコ氏と接触していたのは、たったの九時間だ。その間だけでも、ゴヒエツコ氏の主張や行動はつじつまが合わなかった。

ゴヒエツコ etsugohi 氏と思われる人からの嫌がらせが止まない

IPアドレスをブロックしてもブロックしても、ゴヒエツコ氏と思われる人からの嫌がらせコメントが止まらない。



ゴヒエツコ氏は、無差別に自分の被害を訴える、非常に長文のDMを様々な人にいきなり送り付けていることが判明した。
そのせいで、苦しんでいる人がたくさんいる。


反応がある人だけを仲間にしていったようだ。


何千文字もある長文のメールを話したこともない人に、いきなり送り付けるのは暴力だ。


ゴヒエツコ氏と思われる人は、ゴヒエツコ氏の名前をわたしがブログに書き始めた次の日から、コメント欄で攻撃してきた。

最低 (125.204.232.33) 2016-07-18 02:56:57
あなたのしていることは被害者の本名をさらすセカンドレイプです。 サバイバーなのにセカンドレイプ。最低最悪な女。 その報いは必ず訪れる。

ゴヒエツコetsugohi 氏とゆかいな仲間たちとその失礼


ゴヒエツコ、という名前が本名かどうかは、ゴヒエツコ氏にしかわからないことだ。
しかし、このコメントで「本名」と断定して、書き込みをしている。
このことから、わたしをセカンドレイプをしていると訴えるコメント群はゴヒエツコ氏だと考えられる。
また、非常に特徴的な文体なので、そこからもゴヒエツコ氏ではないかという疑惑が生まれた。
また、コメントしてくるエントリが、すべてゴヒエツコ氏の名前を出しているものに限られていることも、わたしの確信を裏付けている。


X氏は、いきなり被害を打ち明けられて、二年も苦しんでいた。
ほかにも、ゴヒエツコ氏にいきなり被害を打ち明けられて、誰にも相談できずにいる被害者が多くいるはずだ。


性被害を疑うことは、誰にとってもためらわれる。
誰かに相談することも、セカンドレイプになりかねないから、誰にも相談できない。


ブログに自分の被害を書くことと同じように考えているコメントが以前にあったけれど、ブログを書いて公開することと、個人的にメールを送ることでは、意味合いが違ってくる。


受動的なのか、能動的なのか。


その違いは大きい。


このエントリを書いたのは、ゴヒエツコ氏の暴力的なメールに苦しんでいる被害者の方が、自分一人だけで苦しんでいるのではないと、知ってほしいと思って書いた。


コメントの時間帯にも注目してほしい。
普通の人は、コメントしない時間帯だ。
わたしの調べたところ、ゴヒエツコ氏は、無職に近い生活を送っている。
この時間帯に書くことも可能だ。
また、毎日、わたしのブログをチェックして、エントリを書いたすぐあとに書き込みをしている人でもあることがわかる。
IPアドレスを変更してまで、このコメント群を書き込む動機があるのは、ゴヒエツコ氏しかいない。


ダブルクォーテーションの使い方も特徴的だ。
わたしは普段人の文章を読んだとき、ダブルクォーテーションで言葉をかこっている人をあまり見ない。
しかし、ゴヒエツコ氏はそれを多用していた。
非常に珍しい特徴を踏んでいる。

最低 (125.204.232.33) 2016-07-18 03:00:59
セカンドレイパーさん、あなたが見ている世界が本当とは思えない。あなたの思い込みが多数見受けられる。 それでもセカンドレイプを続けるあなたに、かならず罰がくだる。
菅野完氏とゴヒエツコ etsugohiの係争中の事件についてのグループチャット

a (119.104.58.88) 2016-07-18 03:15:05
あなたのしていることがセカンドレイプであることを気付いてください。
菅野完とゴヒエツコetsugohi 氏の件について怒りのエントリがアップされました

a (119.104.42.41) 2016-07-25 12:48:03
自分がセカンドレイパーであることをまだ自覚されないのでしょうか。あるいは自覚したもののその事実を認めきれず逃避するため憶測ばかりの"物語"を公開し続けてるのでしょうか。あなたは"自己防衛"のつもりかもしれませんがもはや同情する余地は微塵も見あたりません。あなたの"暴力"に今も苦しむ人がいると思うとつよく胸が痛みます。あなたの文章で希望を見いだしたであろうこれまでの読者の尊厳さえ今のあなたは踏みにじっています。ご自分の行為を棚にあげないでください。
わたしは人間扱いされたかった #週刊金曜日 黒幕は #中島岳志

a (182.251.240.39) 2016-07-26 20:12:51
これまで「性暴力被害のサバイバー」としても読まれてきたであろうあなたのブログの信頼は完全に失われています。加害者を持ち上げ被害者の尊厳をこれでもかこれでもかと踏みにじる内容にもその本性が垣間見えます。あなたは今や「ただのセカンドレイパー」でしかありません。自分の加害行為をごまかさないでください。
解放出版社と週刊金曜日は同じビルの同じ階にある #週刊金曜日


わたしは、加害者を持ち上げていない。
わたしは、最初、ゴヒエツコ氏に寄り添っていた。
そのあと、わたしに加害行為をしたのは、ゴヒエツコ氏だ。
わたしにとっての加害者はゴヒエツコ氏だ。
だから、わたしの被害を訴えるエントリを書いている。
それについて、セカンドレイプだの、ブログの信頼が失われているだの、被害者の尊厳をこれでもかこれでもかと踏みにじる内容、だの言われる筋合いはない。

わたしはわたしの被害を訴えている。自分のブログで。誰に何を言われる筋合いもない。

解放出版社と週刊金曜日は同じビルの同じ階にある #週刊金曜日

週刊金曜日のサイトはすべてphpで組まれていて、IP アドレスやブラウザ情報を集める仕様になっている。

アクセスしただけで個人情報が抜かれてしまう。



1999年に赤字になり、「買ってはいけない」シリーズを出し、赤字を補てんする。
今現在は、決算を一般には公開していない。
ある書き込みでは、一億五千万円の赤字と書いてある。
2010年に新しい、現在の編集長になってから、個人たたきをするようになる。


今年の六月、有田芳生をたたく。

今回は、菅野たたきだ。

解放同盟は、現在五万人の同盟員を抱えているが、高齢化により、平均年齢60歳を超えた。もともとは、二十数万いた同盟員が、五万人に減少した。
もちろん、同じビルの同じフロアにあるからと言って、関連があるとは限らない。調べたところ、関係はなかった。
菅野氏は、解放同盟を脱退した過去がある。

ただしかし、疑問に思う点がある。
現在、週刊金曜日の発行部数が三万で、定期購読者数が二万人である。不思議な符合がここにある。
元書店販売員さんに伺うと、大きな書店でも、一冊預かって、そのまま返すことが多い雑誌だったということだ。
売れるのは、何週間に一回かくらいの雑誌だ。

わたし自身もこの件にかかわるまで、週刊金曜日という雑誌の存在を知らなかった。
なので、定期購読者数が、二万人いると知って驚いた。


少女漫画雑誌のフラワーズでさえ、五万冊発行して、返本があると聞いていたので。


従業員数が、三十人である。
その中の人がしたことを、週刊金曜日が把握していないとは考えられない。
そして、中島岳志氏がpdfを配布していたことが事実ならば、そのメールの履歴を、編集長や社長が把握していないとも考えにくい。

一般的に、企業では、メールの履歴を保存するものだから。
もしも、中島氏がpdfを持ち出して、自分自身のパソコンからメールを送信していたとしたら、情報管理に問題がある。



菅野氏が、2016年4月28日に「日本会議の研究」を出した一か月後に、5月27日号に、「特集に本会議:右派の統一戦線としての日本会議」という特集を出している。


週刊金曜日と、菅野氏の主張は、重なるところが多いが、差分をとると、菅野氏が右翼だということだけが残る。


わたしが週刊金曜日の記事を読んだ限り、いろいろと脚色はしているものの、事実としては、「キス」があった、ということだけがわかる。


かっこづきの「性暴力」とは書いてあるものの、係争中の事件を扱う場合に、メディアが、一方の主張を煽情的に書き立てるのは、いかにも不自然である。


普通ならば、訴状に書いてある、双方の言い分を載せるだけでよいのではないだろうか。

また、運動の中で被害者女性の声がもみ消されたとあったが、菅野氏の証言によると、反原発連の運営に、被害者女性は訴え出て、それに運営も対応していた。この点で、事実のすり合わせがなく、一方的な書き方になっている。


わたしに対して被害者女性は、菅野氏が二回謝罪したこと、運動の運営に訴え出たことは伏せていた。
その点で、彼女の言うことには信ぴょう性は感じられない。
そして、週刊金曜日が、反原発連に、そのことをきちんと問い合わせたかどうかには、疑問が残る。
取材ならば、当然、反原発連に問い合わせるべきではないのだろうか。
被害者女性の主張だけを取り上げて、実際のところどうだったかの裏を取らず、記事にしてしまったことに問題を感じる。


被害があったことを菅野氏自身が認めているため、その内容には、触れないが、事実として、被害者女性は、わたしに多数のうそをついていた。


そのことを考えると、被害者女性の証言だけをうのみにして、週刊金曜日が書いた記事には、問題があるのではないだろうか。


また、菅野氏が二回目の謝罪を終えた数か月後に、被害者女性は訴訟を起こしている。
そのときにも、菅野氏は、謝罪文、損害賠償を含めて、言論停止以外の条件をそのまま飲んでいる。
しかし、被害者女性は、菅野氏の言論停止を求めて争っている。


被害者女性が、菅野氏の言論停止によって得るものがあるとは考えにくい。



わたしは、今回の騒ぎは、右翼でありながら、日本会議や慰安婦問題を扱う菅野氏への、週刊金曜日と、中島岳志の私怨だと思う。

被害に遭えば心は揺らぐ、中立なんて不可能だ

中立っていうのは、自分の利害を守るための行為だから、褒められたことでも何でもない。
敵を作らない、という方針が、自分のメリットだからしているだけ。そのことを自覚していない人のほうが多いし、中立でいさえすれば、自分は清くいられるような妄想を抱いている人も多い。


そして、ものごとをおおごとにして、戦っている人に、それはよくないんじゃないの、と自分の手を汚さないで、ものばかり言う。口だけ出して、手を出さないのは、「中立」という態度をとる人に多い。
はっきりいって、卑怯だと思う。
人の生き方だから、どうでもいいけれど、わたしがそれを卑怯だということも、また自由だ。


わたしのことを、執着しているとか、粘着していると言っている人がいるらしい。伝聞だけどいるんだろうな、と思う。
コメントにも嫌なのが来ている。


それはそうと、被害に遭ったら、心は揺らぐ。不安定になる。その上で戦う。そうじゃなければ、泣いて、愚痴言って、何も変わらない。


不安定な過程で、いろいろ起きた。起こした。「超えてはいけないライン」を踏み越えると自分が後悔するみたいなことも言われたけれど、わたしは全然後悔していない。それにそのラインというものは、わたしが決めたものじゃない。わたしが決めたラインは違う場所にある。その設定を人にあれこれ言われるのは嫌だ。


それに、わたしはそこまで非難されるようなことを言ったか、と思う。しているかもしれないけど。具体的に指摘されていないから、それにおびえても仕方がない。自分を責めて良い時期だとも思えない。何か悪いことをしているんじゃないかと疑いながら、おびえながら暮らしたくもない。間違うこともある。それはわかってる。誰でもそうだ。なぜ、わたしばかりに皆求めて、自省をしないのか、不思議だ。私にかまう前に、自省すればいいのに。わたしに何か言う人自体が矛盾を抱えている場合が見受けられた。



中立でありたいんだろうな、と思う人からの接触もあった。情報がほしくて、話をしたけれど、収穫はなかった。中立であろうとしている人のところに、重要な情報は来ない。そうだよな、中立です、と態度で示している人に、大事なことを打ち明ける気にはなれない。



中立と言っても、その人にも利害があって、好みもあるから、「自称中立」にしかなれない。戦争に巻き込まれそうな小国なら中立を標榜するのもわかるけど、人と人の間で、どちらが正しいのかわからない、と言っているなら、一生話かけなくていいと思う。別に味方になれ、ってことじゃない。だけど、どちらが正しいのか間違っているのか、それくらいは自分で判断できるはず。むしろするべき。


「彼女にも事情が……」と言ってフォローしようとしてくる人も何人かいたけれど、その人たちだってきっと自分のことを中立だと思っていただろうし、自分はバランス感覚があると思い込んでいただろう。


そんなことを言えば、わたしにだって、事情はたくさんあるよ。
でも、中立めいた人たちは、わたしの事情をなぜか忖度しないのだった。
攻撃的に見えるわたしを強いと思い、黙り込む方を弱いと思い、弱いほうを助けなければと、善意で、わたしに言って来るのだった。
でも、わたしが強いか弱いかなんて、その人にわかるのか、という思いがある。
わたしだって、平均的な人間がそもそもいるのかどうか知らないし、実際強いのかもしれないけれど、身近な人には弱いと言われているから、人の評価なんてあてにならない。


沈黙を続けて、面倒ごとを避ける人のことは、したたかだという見方もできるけれど、自称中立の人はそこまで頭が回らない。せっかく、ついているんだから、回そうよ、頭を。使おう。じゃないとただの帽子置き場だ。


わたしだって、全体的に自分が正しいとは思っていない。正しい部分と正しくない部分もある。


だけど、不当なことをされたのは、わたしの中の事実だから、その不当さを放っておかない。わたしに降りかかった火の粉は、自分で振り払わないと、燃え尽きてしまう。



G氏は被害を訴えていたから、周りも擁護する人が多かった。わたしのしていることが、悪いと言ってきた。
でも、先に不当なことをしたのはG氏だ。それは、彼女の受けた被害とは関係がない。わたしに対して不当なことをしたのだから、わたしは彼女に対して、不当さを解消するべく働きかけた。


しかし、何も答えてもらえなかったので、自分の名誉を回復するために、経緯を明らかにした。
それをセカンドレイプだのなんだの言われても、何だっていうのだ。彼女の受けた被害と、彼女のした不当なことは、関連性がないのに。


そして、彼女がしていることは、被害者女性だから仕方がないというくせに、わたしが不当なことをされて、心が揺れると、わたしのほうにバッシングが来る。構造は同じなのに。不当なことをされてるのは同じなのに、片方は具合が悪いから仕方がないとかばわれて、わたしはバッシングされる。なんてことだ。


それを中立だと思っている人がいる。どっちもどっち、と言えば、中立だと思っている人もいる。取り持つことが中立だと思っている人もいる。どちらにも肩入れしなければ中立だと思っている人もいる。関係者全員をたたけば、中立だと思っている人がいる。


中立であれば自分が間違っていない、正しいと思っている人もいる。


どれも違うよ。



口を出す、ということは、自分の意思で発せられていることだから、まず、自分自身の味方である。その時点で、中立とは言えない。小さな国が、戦争に巻き込まれそうになって、中立です、というのは、自分の意思で発していることだから、自分のためだ。それと同じ。



どっちもどっち、という人は神様か何かか勘違いしているんだと思う。ものごとを正確に、精査して考えられていないという時点でバカ。どっちもどっちという前には、このことについてはこちらが不当で、このことに関してはあちらが不当だ、という風に細かく考えないといけない。それを放棄している時点でだめ。


関係者に肩入れしない人は、中立じゃなくて、傍観者。外野。ウォッチャー。それはそれで一つの立場であって、中立とは程遠い。


取り持とうとする人は、わたしが不当なことを受けたと訴えると、「でもあの人にも事情があるから」と言って、わたしの訴えを無効化する。それは、中立じゃない。不当なことをした側の味方だ。別にわたしに何かしたとかそういうわけじゃないけど、訴えを話すたびに、無効化されるのならば、話す価値もないし時間の無駄だと思う。だから、付き合いは絶たれる。
付き合いがない人は中立という立場にさえいられない。無関係な人だ。単なる。


中立であれば、自分が正しくて、間違っていないと思える人も間違っている。中立は、生き残るための戦略だから、ああ、生き残りたいんですね、という感じ。何から生き残るのかはわからない。知らないし、知りたくもない。
中立を望む人は、大勢の意見を気にする人だから、結局はみんなの意見に流される。いつの間にか、考えが偏っている。そのことも自覚できていない。だからバカだと思う。自分の頭で考えて、判断することを放棄している人。


生きていれば、何かを選び続けなければいけない。それは厳しい選択の連続だ。でも、それをやめて思考停止してしまえば、いざというときの瞬発力がなくなる。生きる力が失われる。


守られていて、そのままで大丈夫な人には縁がないから、そういう人はそういうまま生きていけばいいと思うけれど、自分の立場が安寧だから、わたしの状況に想像力がいかないまま、「執着している」「自分を正当化している」「錯乱している」「怒っていればなにをしてもいいのか」みたいなことをわたしに言う。


でも、それは暴力だからね。


被害に遭えば、心は揺らぐ。言葉の暴力を浴びながら、不当さと闘うのは骨が折れる。


それでも、わたしは心を揺らぐ自分でいながら、戦う。生きることは戦いだから。

忠告を聞かずに動き続けて得るものがある

一連の炎上で、忠告をしてきた人は多い。



荒れたことを書いていると、あとで自分が後悔するんじゃないか心配だとか、c71の信用を落とすんじゃないか、とか言ってきた人たちがいた。


先回りして、心配するのは、わたしの失敗を奪う行為なので、それはパターナリズムだ。
今回は、普段、パターナリズムを批判しているように見える人からも、そういう行為をされた。


忠告する人たちは、人に、こうあってほしいという自分自身の願望をぶつける。それが忠告の本質の一部だと思う。自分の利害や願望なのに、「あなたのため」と言ってくる。わざわざ、体裁を取り繕う。そして、自分を守る。
正しいことをしているという幻想を守る。


友達にも言われたが、信用なんて、生活範囲の中で十分だ。わたしのブログはわたしが全部書いている。その中で培ってきたのだから、わたしが新たに書くもので、信用を失うのも、自分の失言で後悔するのも、わたしの自由だ。


わたしはあのとき、傷ついていて、不適切なことも言った。傷ついていることを、「怒っていれば、自分に酔っていれば、何を書いてもいいと思っているのだ」という風に言われたこともあった。


傷ついていることが免罪符にならないのはその通りだとも。でも、その失言の責任だって、わたし自身が負う。後悔も、失敗もする。そして、取り返しのつかないこともあるだろう。それを含めて、わたしは文章を書いてきたし、これからも書いていく。



信用しているから書かないでほしい、信用を落とすから書かないほうがいい、というのは、ようするに、わたしに黙れということだ。
わたしは被害を受けて、傷ついたから、正常な反応をしただけなのに、酔っているだの、錯乱しているだの、怒りに我を忘れているのだの言われた。


忠告の形をとっていたけれども、そして「選択するのは最後には自分」だとも言われたけれども、それは「忠告する自分は責任を取らないけれど、あなたがやっていることはおかしいし、黙ったほうがいい」と言い換えられる。


わたしは確かに失敗した。失敗しながら、動き続けた。そのために、見えてきたことがたくさんある。
忠告通りに黙っていたら、わたしは今もぼんやりとして、具合が悪いままだっただろう。


真実を突き止めるために、動き回って、調べて、それでようやくたどり着いたことがある。


わたしを心配しながらも、見守ってくれていた人がいた。
「逃げなかった人から人が逃げることはない」「不特定多数の人がそれぞれの考えで忠告してきたように見えたが、自分の中の気持ちを大事にされてよかった」「その時その時で最善と考える動きをしたことで、失敗もあるだろうけれど、何かしらの変化が見えてくる」と言ってくださった方もいた。


「何もするな」「そのままでいろ」というのは、無意味なアドバイスで、アドバイスですらない。中身のあることを言ってほしいですよね、とおっしゃってもらった。



わたしは好きなことを書いてきた。これからもそうする。信用されるために、書いてきたわけじゃない。
自分のため、そして、誰かがもしかして、何か得られることがあれば、おまけとしてそういうことがあればいいと、考えてやってきた。


信用を落とすのが怖い人はいて、その自分の気持ちを投影してきたのではないか、と解説されて腑に落ちた。
そうだ、わたしは怖くない。信用されるために書いていないから。今までだってずっとたたかれてきた。
それが普通で、わたしには、優しい言葉も届くけれど、そうじゃない言葉の数のほうがずっと多い。だから、わたしの言葉が信用されているなど、最初から思っていなかった。


わたしは、忠告を聞かなくてよかった。忠告を聞いていたら、真実にたどり着けなかった。
心配しているのは本当なのだろうけれど、それは、心配する人の都合で、自分自身が解決しないといけないことだ。それなのに「心配」を丸投げして、何かしたような気持になっている人のことはもう知らない。関係がない。何もしてくれなかったどころか、邪魔したのだから。


わたしは乱暴な言葉も、荒っぽい言葉も使った。そうしないと、つらかった。生きていられる気がしなかった。そういう言葉を、おおげさととらえる人が多いけれど、わたしは精神的にも身体的にも弱いから、すぐに倒れてしまう。自分のために、生きるために、言葉を使った。


それを否定する人は、わたしの命を否定するのも同じことだ。わたしの都合や状況を本当に知っているのは、パートナーと、仲間しかいないのに。知らないのに、わたしに忠告して、その忠告がわたしを殺すかもしれないなんて考えもしなかったのだろう。責任を持たずに、いいことをするのは、気分がいいだろう。


わたしは誰かの気分をよくするための供物ではない。


わたしは動き続けて、良かったと思っている。
こんなわけのわからない事態に巻き込まれてつらかったけれど、誰が親身になってくれて、誰がそうじゃないのか、少しわかった。


一番大事にしないといけないのは、自分の感覚だ。
自分の気持ちは、わたしを正しいところに連れて行ってくれる。


わたしは、自分の気持ちのままに、動いた。失敗もあった。でも、生きていれば、失敗もある。失敗しながら、間違いながら、そして、間違えたときには、謝って取り返しのつかないことがあったとしても、謝って、そして、新しい場所にたどり着きたい。


失敗を恐れて、何もしない人だって、取り返しのつかない失敗や、誰かを傷つけることを避けられるわけでもない。それはおごりだ。


だったら、わたしは、動き続ける。真実を求める。

c71.hatenablog.com
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わたしは人間扱いされたかった #週刊金曜日 #中島岳志

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わたしは、今も傷ついている。


わたしに対してだんまりを続けることは、わたしがいくら傷ついていても、事情がわからないため、苦しんでいても、週刊金曜日にとっても、G氏にとっても、別に大したことじゃない、という扱いを受けていることに等しい。


週刊金曜日は、発売日前の記事の写真を渡し、記事を書いたわたしにG氏を通して、あれこれ注文を付けた。
記事の写真のしたに、「上の人が気にするから」週刊金曜日の文字を入れるように言われたのが、もっとも象徴的なことだ。


週刊金曜日は黙っていれば、G氏を傷つけないでいられるかもしれないが、第三者として、働いたわたしの気持ちはどうでもいいのだろう。


しかし、わたしは週刊金曜日の沈黙は、人を傷つけないようにするためだけだとは思えない。

隠したいことがあるのだと思っている。

電話の応対からも、会社ぐるみで、事情をわかった上で、あしらおうとする姿勢を感じている。

週刊金曜日からは、業務部から、発売日前の時点で、お礼のDMが来ている。それ以降も、おかげで大義を掲げる機運ができたと、重ねて感謝の言葉が来た。
「上の人」「記者」「業務部」が少なくとも関わっている。それほど大きな会社というわけではないだろうから、わたしの記事を利用するという方針だったのは、一部の人が、というよりも、会社全体の問題だとわたしは判断している。


会社ぐるみで、わたしを利用したのだ。



週刊金曜日は、マスメディアなのだから、被害者の言い分をそのままコピーした内容の記事も書くべきではなかった。せめて、菅野氏に取材するべきだった。電話一本でも済む話だったのだから。


それを怠っている。


そして、理由はわからないけれど、わたしが利用されて傷ついているのに、わたしが個人なのをいいことに、そのまま、連絡を取らずに、黙殺しようとしている。



グループチャットのログを検証し、名前の挙がっている人に、取材したり、内容を検分すると、G氏は嘘をついていることがわかった。


どんなに好意的に解釈しようとしても、どうにも説明できない部分がある。


わたしの考えでは、一つ嘘をつく人は、どの発言でも信用がおけなくなってしまう。すべてが嘘でないにしても、わたしからみると、すべてが嘘だと疑ってかからないといけなくなる。


みんな、性暴力被害者、というだけで目が曇っているけれど、性暴力被害者になったとたん、人格が変わって、嘘つきに変貌するなんてことはない。
性暴力被害者になったから、嘘つきになったのではなく、もともと、嘘つきだったのが、性暴力被害者だからといって、より甘く見られて、嘘の際限がなくなった、というところだと思う。

性暴力被害者だから、他人を利用したり、利用した後、いらないとばかり、ごみのように扱ったりしてもいいわけではない。
通すべき筋は通せる。
それは、わたしが強い性暴力被害者だから、というわけじゃない。
ただ、性暴力を受けて、どれだけ弱っていたとしても、もともと嘘つきでなければ、嘘をついたり、自分のためにネットリンチを計画したりする発想が出ないだろうということだ。もともと、そういう人なのだ。


週刊金曜日のしたことを、一部の人がしたことだと考えたい人もいるようだけれど、それは違う。
証拠は何もないけれど、週刊金曜日に言われて、わたしは記事を何度も直した。週刊金曜日の都合の良い形の記事を書かされた。わたしの知っている限り、週刊金曜日の上層部、業務部、記者が関わっている。
記事は一人で書くものではないから、記者の上長も把握しているだろう。


それに記者一人で、記事の写真を配ったり、中島氏が記事のpdfを定期購読の発売前に配ったりもできない。
そんなことをしたら、記者本人が首になってしまうだろう。
それを許可した人がいるはずだ。


G氏たちは、菅野氏をうんこと呼んでいた。記者は、自分の書いたゲラの原稿に、うんこ.pdfとつけていた。それを許していた人がいる。会社ぐるみで、そうしていたということだ。
自分の部下が、うんこ.pdfという名前のファイルを出してきてもそれを許していた人がいる、ということは、会社がそういう体質なのだ。


G氏は、ゲラの名前が、うんこなのだと、うれしそうに言っていた。わたしだったら、たとえ加害者が憎くても、うんこと呼ばれていたら、うれしくない。
記者が、本当に、ゲラの原稿名をうんことしていたとしたら、倫理観を疑う。
そして、それは本当なのだと思う。


記者にとって、菅野氏は加害者ではない。だから、記者が菅野氏をうんこ呼ばわりすることも、会社に提出するゲラにうんことつけることも、倫理的に悪いことだと思う。加害者になら、何をしてもいいと思うのならば、それは大間違いだ。

人には人権がある。誰にでも。

しかも、今は係争しているところで、菅野氏は二次加害を防ぐためにすべて認めると言ってはいるが、だからと言って、うんこと呼ぶことが正当化できるはずもない。


人間を、うんこと呼ぶことは、どんなときであっても許されない。
まして、係争中で、何も決まっていないのだから。


勝手に、第三者が、菅野氏をうんこと呼んで、彼の尊厳を傷つけてはならない。


わたしが記事を書くことを拒否することは難しかった。わたしは、性暴力被害者だったから、自分のしてほしかったことをした。だから、記事を書いた。


あのとき、わたしは被害者に寄り添うことを第一義にしていたから、G氏の伝言で来る言葉を拒否することは難しかった。G氏が、週刊金曜日の意に添う記事を書くことを望んでいたから。


わたしは、今、黒幕は、中島岳志だと思っている。クリティカルな証拠はない。(クリティカルな証拠はないけど、実際にこの記事を仕組んだのが中島氏だという証拠はある。これ。中島氏は、週刊金曜日の編集員で、G氏に週刊金曜日の紹介したのは中島氏だ)*1
実際に、職権乱用をして、発売日前の記事、定期購読者に届く前の時点で、pdfを配布しているし。
おそらく、G氏が接触してから、菅野氏を社会的に葬るための絵をこの時点で描いたのだろう。
なにか、スキャンダルがないか待っていて、それが来たのだから渡りに船だったのではないか。

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菅野氏の言論停止をG氏は求めている。それで得をするのは、中島氏だ。あの記事には、G氏の主張だけが書いてあり、一方的で、中立とはとても言えない。


また、中島氏は慰安婦問題でも、セクハラ問題でも、適切とは言えない行動をとってきた。

その中島氏が、この問題にコミットすることに違和感がある。

この件を利用して、自分が性暴力問題で、知見があること、運動でもきちんと女性問題にも目配りできているという、アピールをしたかったのではないか。


そして、G氏が菅野氏に求めている、言論停止が実現したとき、もっとも利益を得るのは中島氏だ。

中島氏はメディアを私物化して、自分のために使った。自分の評判をあげるために、免罪符のために、性暴力も利用している。


中島氏は、菅野氏だけでなく、菅野氏を批判する人にまで、菅野氏をとりあげるなと言っている。


普通に考えて、これは常軌を逸している。
菅野氏の言論停止が実現したら、中島氏の思惑通りになる。

わたしは、中島氏の女性差別問題のアリバイにされた。自分で書かなかったのは、彼が女性差別者だから、自分の言葉で書けなかったからだ。


だから、黒幕は中島氏だ。中島氏はこの件にコミットすることで、自分の今までしてきた女性差別を帳消しにできると踏んだのだろうし、菅野氏の言論も封殺できる。


週刊誌が中立であらねばならない、ということはないにしても、裏を取っていないということ、菅野氏に取材していないということは、たとえ、被害者を保護したいとしても、取材をしないというのは、怠慢だ。



わたしに記事を書かせたのは、G氏とその弁護士と、週刊金曜日だ。
誰もが、わたしからの連絡を拒む。何も、対話してくれない。わたしは、論破したいわけでも、抗議したいわけでもなかった。ただ、事情を知りたかっただけだ。それでもなお、対話は拒絶され続けている。



暴言のことを考えると、わたしは人間扱いされていなかった。単なる便利な道具。そして、都合が悪くなって、ケアなどの面倒ごとが持ち上がると、壊れたおもちゃのように捨てられた。


それで、わたしは、今も傷ついている。


週刊金曜日が黙っているのは、これ以上誰かを傷つけないためなのかもしれないと言っている人もいたが、その文脈だと、傷つけない人間の中に、わたしは含まれていない。残酷だ。

わたしのこの苦しさは、なかったことにされている。これ以上誰かを傷つけない、の中に、わたしは含まれていないわけだから。


わたしが記事を上げた直後に、お礼のメッセージを残せるのならば、わたしが苦しんでいるときに、私に対して、対話するべきだ。都合のよい時だけいい顔をするのは良いことではない。


わたしは、人間扱いされたい。道具ではなく。
わたしは傷ついている。人間扱いされていないから。


彼女の嘘の範囲がどれだけかわからない。でも、彼女は嘘をつくことにためらわない。わたしは、それを検証することにコストをかけたくない。だから、今では、真実がいくらあったとしても、彼女の言うことは全部嘘だと考え、行動しようと思っている。


彼女は、筋の通らない、卑劣なことをした。週刊金曜日も、まったく同じことをしている。


わたしは、人間扱いされたかった。だから、対話を望んだ。しかし、対話は行われなかった。
わたしは人間でいたい。人間扱いしてこない相手を、わたしは容赦しない。
わたしが望むのは、わたしをなかったことにしないで、きちんと、人間扱いしてもらうことだ。

*1:証拠はないって書いたら、証拠は出そうよ、と言われたので出します